お金とは、そもそも何なのだろうか?

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最近、このことを考えさせらえる出来事が多く起きている。官僚による汚職問題、消費税の10%以上の引き上げ議論。国家は誰のために存在している?民主主義とは?そもそもお金ってなんだ? ニース報道を見るたびに、そんなことを考える日が多くなってきた。


お金について歴史を紐解いていくといろいろ面白いことが見えてくる。インターネット、特にWikiは便利なもので、すぐに欲しい情報が手に入る。お金の起源については、「いつごろ使われ始めたのかはよく分かっていないが物々交換が盛んに行われるようになると物資の交換に伴う不便が生じるため不便を取り除くため」と始まっている。その通りだとおもう。紙幣が生まれた訳もそこを読むと良くわかり、「金銀をそれまでのように取引に使用していては、盗難や磨耗の危険がある。そのため、人々は金銀を貴金属細工商の金庫に預け、代わりに証書を受け取った。証書はいつでも金銀に交換可能なため、紙切れでありながら価値を持った」ということが起源となっている。
さて、人が生活をしていくためには、漁業を生業としている人は、魚だけを食べても飽きてしまうため、農業をしている人と交換をする。たぶん昔は同じ重さで交換をするという単純なものであったのだろうが、いつも農作物が取れたり魚が取れたりするわけではないので、物がたくさんあるときに分けたことをわかりやすくするために貨幣を便宜的に使っていたに違いない。「受け取ったのでありがとう」という意味での貨幣だろう。社会人ならば、自分の給与は労働の対価としてお客様から「ありがとう」という感謝の気持ちとして受け取っていることを多くの人は実感していることだろう。

人が生活をしていく上で必要なものの対価として流通していた時代から貨幣は紙幣へ、そして国際的な為替システム、そして変動相場制へと変化していったために、その時代において物資的に優位に立っていた国が、物資の貧しい国から更に物を奪うという構図をもたらしてしまった。映画「ダーウィンの悪夢」からもわかるように、航空機や大型貨物船による物流システムの発展、金融テクノロジの発展、食料や物資の相場を国際的に迅速に知ることができるようになった情報通信の発展が、これに拍車をかけていて、世界で人々が平等に生活をしていく国際ルール作りが急務になっているように思える。具体的には、国際的な為替交換の禁止と該当国での経済成長以上の金利をとっての貸付の禁止だ。為替交換が禁止されると、国際取引は物々交換しか存在しなくなる。国際貿易とは、そもそも二国の間で行うことが基本であり、それでなければ貿易不均衡が起きてしまう。トヨタが米国に自動車をたくさん売ったのであれば、トヨタは米国からなにか日本人が好みそうな物を日本に輸入する義務があるのである。そうなると、きっと金を輸入するという実質的な為替交換みたいなことが起きてしまうかもしれないが、米国は金を産出しているのだから、それでよいだろう。

話は変わるが私は、時代劇の大岡越前や必殺仕事人が大好きだ。多くの場合の悪役は、まさに悪の権化みたいな人達だが、年率15%以上の金利をとっての貸付や食料品や原油などの先物取引を巨額のお金で買い占める行為などは、どう考えても、時代劇であれば、裁きにあってしかるようなシーンに思えるのだが。

先進国の人達は、豊富な食料と水があるいまの自分の状況が普通だと感じているかもしれないが、世界中を見渡してみると、それは決して普通な状態ではないし、実際には多くの貧しい国々の食料を略奪して成り立っていたり、過酷な労働を強いている現状がある。そこに、無償の愛は存在していないどころか、お金に目がくらんだ悪のみが存在している。

最近、アフリカのマサイ族にこんな人がいるという話を聞いて感銘を受けた。マサイ族の近代化をもくろんで国費でロンドンのオクスフォード大学を卒業した生徒が、その後、先進国の生活を経験していながらも、マサイ族のいまの暮らしに戻ったという。その理由は、「人々が支えあうコミュニティ的な暮らしがそこにあり、人の温かみがあるからだ」という。資本主義経済は人々を奴隷のように使うビジネスモデルであり、人としての生き方にストレスを与える生活となっているのだという。確かに同意する点は多い。

古代においては日本でも、村社会という助け合い文化が根強くあり、貨幣すら融通せずに生活できる社会があったのだから。私がマグロ釣りでたまに訪れる、沖縄県の久米島では、日本で最も所得が低いと位置づけられているのにも係わらす、島民はみんな心が豊かな暮らしをしている。それは貨幣に依存しない助け合いの文化(=無償の愛)があるからだ。
マグロ釣りから戻ってくると、島民がワラワラと寄ってきて、船長が勝手に僕らが釣ってきたカツオとかをあげてしまうのだ。まぁ、釣るのが目的なのでそれでよいのだけど、その様をみていると私も魚を手にとって人々にあげてしまうのである。その魚が美味しい食事となってまた私たちの元に戻ってくることもあり、島民全体がひとつの家族のようだ。
そう、地球人全体が元々は同じ先祖から生まれた家族であったはずなのに、どうしてこのよう社会ができあがってしまったのであろうか?

身体障害者や母子家庭に「自立支援」という名目でますます負担を強いている小泉政権時代の数々の法案。年金制度を抜本から直すということで、いままで国民年金という税金を払っていなかった人達からの票取り目的の民主党。

いまの市場主義、資本主義経済圏も、共産主義、社会主義圏同様にそろそろ崩壊する気がしてならない。なぜなら、貧乏な人は年率15%以上の金利でお金を支払い、お金持ちは年率7%は手堅く、年率40%で利益を得ている人達もいるのだ。このままでは、ますます貨幣という「ありがとう」の気持ちを一部のひとが独占することになるが、ひとりの人が一生に消費する「ありがとう券」には限界があるはずで、なおかつ消費する以上に増加しているのだから、お金が市場で流通しない動脈硬化のよう状況になり、突然死するのではないだろうか。

なぜなら一部の裕福な人がもっているお金は信用があることがベースとなっているが、99%のその他多数の人達が「そんなものは信用ならないので新しいものを私たちは信用する」として、新たなお金を自主的に作ればいいからである。その際のお金は、いままでのように「信用」によってできた仮想的な信用証書(=紙幣)ではなく、本当に人々の物々交換に基づいたものであった場合には、どうなるであろうか。お金でないので、国家は課税をすることができなくなる。キャベツと魚を物々交換をするひとたちに国家が「キャベツの外側3枚と魚の頭を国家に納めない」とするのは非現実的だからだ。

実はこのような社会の仕組みは、いまのIT技術で可能で、私は友人はその仕組みをSNSを通じて構築する構想を持っている。しかし、こうして貨幣がなくなってしまうと国家を運用することができなくってしまう。国家運営に従事する事は全国民が当番制で行うこととし、ボランティアとして物資やサービスをそのSNSを通じて受けることができる。でも、やはりボランティアなので、その代償は生産活動(農業、工業など)をするよりは少ない。当番制だから、それでよいのではないだろうか。PTAみたいなものなのだから。

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